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2026年2月理事長のご挨拶

いつも医療法人ロコメディカル江口病院をご利用いただき誠にありがとうございます。

今月は明るい話題として、高市政権が2期目で組閣され、「勢いがある内閣」が元気なへの国の回復へ様々な施策について着手され、またミラノでは華々しい冬季オリンピックが開催され日本からの選手も大活躍しておられ、それぞれの方々が「責任」を「結果」として命懸けで示されています。一方では世界中で戦争や紛争が続き、エプスタイン文書の公開では信じられない数の「立派な方々」が引責の行動を取られたりと、毎日、世界は激動しています。

そこで、今回は「責任」について自分なりに様々な視点から考察してみました。

日本語「責任」の語源を調べてみますと、「責任」は、
   責(せき)
   任(にん)
という二つの漢字から成り立っています。

最初の「責」は、もともと、問いただす・求める・責めるという意味を持っているそうです。古代中国では「責」は「成果や結果を要求する」ことを意味しました。つまり、行為に対して結果を求められることが「責」の本質です。

二番目の「任」の意味は、任せる・担う・引き受けるという意味です。
重い荷を背負う象形から成り立っています。つまり、ある役割や重みを引き受けることが「任」です。

したがって、二つを合わせて「責任」の本来の意味を考えると、結果を求められる立場を引き受けること、これが日本語としての「責任」という意味になります。

「責任」という言葉は、明治期に、西洋の responsibility の訳語として定着しました。英語「Responsibility」の語源は、ラテン語の respondereに由来します。respondere の意味は、再び(re)や約束する/答え(spondere)、つまり、約束に対して答えることが語源です。
ここから
response(応答)
responsible(責任を負う)
responsibility(責任)
が派生したようです。したがって英語では責任は「問われたときに答えられること」という意味合いが強いのが特徴です。

フランス語 responsabilité も同じラテン語由来です。フランス思想では自由(liberté)と責任は不可分と考えられます。自由とは「好き勝手」ではなく、自らの選択に答えられる状態を意味します。

ドイツ語では、 Verantwortungというそうで、Antwort(答え)、ver-(強調)つまり、強く答えること、答える立場にあること、説明責任という意味があるそうです。

そう考えると日本と西洋には「責任」という意味合いが若干異なることが分かります。つまり、日本語は「責められる」「担う」というニュアンスが強く、西洋語は「答える」「応答する」というニュアンスが強いようです。これが責任の語源的本質における欧米と日本の違いです。ニュースなどで眼にする「不祥事への責任者の謝罪会見」と意図的な痛々しい画角での撮影による「晒し刑」のようなオールドメディアやワイドショーによる報道がほぼ毎日のようになぜ日本で行われるかも「責任」に対する国民性の表れなのでしょうか。

では、わたくしたちが目指すインクルーシブ・ロコワールドが手本として学んでいるニュージーランドに古くから住むマオリ族が用いるマオリ語には「責任」に完全に一致する単語はないそうです。つまり「責任」という概念そのものが、西洋文化の影響を受けて後から形成されたようです。ただし、マオリ語には責任に近い意味を担う重要な語がいくつかあります。

マオリ語における「責任」に近い概念として、4つの言葉が挙げられるようです。順にご紹介しましょう。
① kawenga
kawenga は、現代マオリ語で
責任・負担・義務
と訳されることが多い語です。
語源は動詞 kawe で、運ぶ・背負う・担ぐという意味です。つまり、背負うもの引き受けて運ぶものという身体的なイメージから派生しています。これは日本語の「任(担う)」に非常に近い感覚です。

② haepapa
haepapa は、義務・責務・役割という意味で使われます。これは

  • hae(義務的要素)
  • papa(基盤、土台)
    という語から成り、「自分の基盤となる役割」というニュアンスを持ちます。

    ③ mana
    マオリ文化では、mana(威信・尊厳・霊的権威)が非常に重要です。mana を持つ者は、自然と共同体への責任も負います。つまり、権威と責任は不可分です。ここはフランス的な「自由と責任」に似ています。

    ④ whakapapa
    whakapapa(系譜・祖先からの連続性)は、マオリ社会における倫理の中心となる概念だそうです。自分は祖先から連なり、子孫へ続く存在である。したがって責任は、個人の選択というより、祖先と未来への連続性の中で果たすものと理解されます。これは西洋の「説明責任」とはかなり異なりますが、わたくしたち日本人には近い考え方があるかもしれません。

    マオリの考え方と西洋の考え方との決定的違いとしては、
    西洋では答えること(respondere)、説明可能性(accountability)
    マオリでは、背負うこと(kawe)、関係を守ること(mana)、系譜を汚さないこと(whakapapa)であり、責任が「法」ではなく「関係性」と結びついているのが特徴です。

    責任は単なる義務ではありません。罰を恐れて従うことでもありません。命じられたことを処理することでもありません。責任とは自らの立場と行為の結果を、自ら引き受ける覚悟とも言えるかもしれません。また責任を果たすとは期待された役割を誠実に遂行し、その結果について説明できる状態であることです。
    責任を果たさなければ、社会では信用を失い、組織では立場を失い、企業では株主・顧客・取引先からの信頼を失います。企業経営においては、業績悪化や不祥事があればトップが速やかに辞任するのは世界的に一般的です。最近、国際社会を騒がせている「エプスタイン文書」による世界各国での著名人の辞任がその責任に相当するでしょう。ガバナンスの観点から説明責任は企業価値そのものと直結します。「責任」とは、単に義務を果たすことではなく、自分の判断や行動がもたらす影響を他者任せにせず、最後まで自分で担う姿勢も指します。

    では「日本人はいつ、どのように責任を学んだか?」について考えてみます。これは法律や哲学の問題というより、生活文化の中でどう形成されるかという問いです。
    最初の学びは 3〜6歳頃と考えられ、主に家庭で育まれます。多くの日本人にとって、責任の最初の経験は家庭でしょう。
       「自分の靴は揃えて脱ぎなさい」
       「使ったものは元に戻しなさい」
       「ごめんなさいはきちんと言いなさい」
    ここで学ぶのは法的な責任ではなく、自分の行動が周囲に影響するという感覚です。日本のしつけでは「迷惑をかけてはいけません」という言葉がよく使われます。わたくしも母から何度もそう言われて、たくさん怒られて育ってきました。これは結果への責任を持つという意識を育てます。

    次に集団生活の中での学びの段階に入り、幼稚園・保育園で育まれます。日本の幼児教育は、世界的に見ても「集団生活」を重視します。
       当番制
       みんなでお片付け
       係活動
    ここでの責任は自分がやらなければ、みんなが困るという形で体験されます。罰よりも「みんなに迷惑がかかる」という感覚が中心です。これも日本的と言えるでしょう。

    次に、小学校では制度的な学びへと進んでいきます。日本の小学校は学校生活で責任教育が盛りだくさんです。
       給食当番
       掃除当番
       日直
       班活動
    児童は役割を持ち、交代しながら担います。ここで学ぶのは責任は特別な人のものではなく、誰もが順番に担うものという感覚です。欧米では清掃を業者さまが行う学校も多いですが、日本では子ども自身が行います。これは「共同体を維持する責任」の体験教育と言えます。

    そして次に思春期に入ると「恥の文化」も加わってきます。
       中学・高校になると、
       空気を読む
       和を乱さない
       期待に応える
    という意識が強まります。いよいよ日本人らしさが濃くなり、日本文化として「罪」よりも「恥」が規範として体得していくことになります。ここで責任は自分が失敗すると、集団の評価に影響するという価値観が形成されます。

    成人すると、いよいよ「社会的責任」が求められることになります。
    成人すると、
       仕事の納期
       組織の役割
       家族への責任
    が加わります。

    日本企業では、個人よりも組織単位で責任を負う傾向があります。ここでは責任=最後までやり抜くことと理解されるのが特徴だそうです。日本的責任観の特徴としては、説明責任よりも結果責任や役割責任が強いという傾向があります。西洋が「答えられること」を重視するなら、日本は任された役割を全うすることを重視します。

    ここまでをまとめますと、わたくしたち日本人は「責任」を、
       家庭でのしつけから始まり
       集団生活の体験を通じて
       恥の文化の中で内面化し
       社会的役割の中で完成させる
    という段階を経て学ぶようです。責任は突然教えられて、出来るというものではありません。日常の中で少しずつ染み込むものです。また責任とは教育だけで身につくものではなく、自分で引き受けると決める瞬間に成立します。それは外圧ではなく、内発的な意思決定と行動です。

    では責任の反対語は、何でしょうか?
    無責任、他責、逃避、放棄です。
    つまり、自らの役割を引き受けないことです。

    ではこんな疑問も浮かんできます。「責任を学ぶ文化があるのに、なぜ責任を果たさない人がいるのか。」

    結論から申し上げると、責任を“知っている”ことと、責任を“引き受ける”ことは別だからだと思います。

    日本では多くの人が、
       当番をこなす
       迷惑をかけない
       和を乱さない
    という形で責任を学びます。

    しかしこれは多くの場合「期待に応える責任」です。一方、本当に難しいのは「自分の判断の結果を引き受ける責任」です。前者は“役割責任”、後者は“主体的責任”といい、ここに大きな差があります。

    日本的責任観には、弱点もあるのではないでしょうか?
    日本の責任教育は、集団に迷惑をかけない、役割をきちんとこなすという特徴があります。しかしその反面、決断する、異論を言う、組織に逆らってでも正すという主体的な責任はなかなか言えない風潮、言わない風土があります。そのため、役割は果たすが、最終的な決断からは距離を置くという行動が起こりやすいのです。それは、責任の分散という心理も影響を及ぼしているかもしれません。残念なことに、大きな組織では「誰かがやるだろう」、「上が決めたことだから」、「前例通りにやっただけ」という心理も働いてしまうのかもしれません。これは「責任の分散」と呼ばれる心理です。現代の日本社会は極めて組織志向が強いため、この傾向が強まりやすい側面があります。古の日本の世界に誇る「武士道」とはかなり違うように思います。

    では、恥の文化と責任回避について考察してみます。日本は「罪」より「恥」を重視する文化です。恥を避けるために、失敗を隠す、説明を避ける、曖昧にする(ごまかす)という行動が起きることがあります。これは責任を果たさないというより、責任を見える形で表明しないという形で現れます。現代社会の構造的要因としては、成果主義の圧力、SNSによる過剰な批判、そしてリスクを取ることへの恐怖がさらに強まっています。そのような中で責任を引き受けると、批判される、失敗が拡散される、キャリアに傷がつくため、正々堂々と責任を負って行動するより、責任を回避するほうが安全という「逃げる」とも取られかねない判断が働く場合もあります。悲しいことにそのような責任者も少なからず居るようです。

    では、わたくしたちヒト以外の生き物は「責任」という概念があるか調べてみました。

    群れて泳いでいる魚に「責任」はあるのかを調べてみますと、魚に責任という概念は存在しないようです。
    魚は、道徳や罪悪感、説明責任、役割への自覚といった概念を持たないそうで、魚の群れは、極めて単純な行動ルールの集合によって成立しています。魚の群れを動かす3つの基本原理として示され、1)近づきすぎない(衝突回避)、2)仲間と同じ方向に向く(整列)、3)一定距離を保つ(結合)という3つのルールです。この3つだけで、まるで統率者がいるかのような美しい群れが形成されます。しかしそこに「責任」はありません。魚の群れにリーダーはいるのかということについては、最近の一部の研究では、少数の個体が方向を決める、経験豊富な個体が先導するということも示されています。しかしこれは意図的な統率や群れへの責任感ではなく、行動の影響力にすぎません。魚の社会では機能的リーダーは存在しても、倫理的リーダーは存在しないのです。では、失敗した魚はどうなるのでしょうか?もし一匹が危険な方向に動いても、群れが追随しなければ自然に修正される、また危険に近づけばその個体が捕食されてしまうことになるのだそうです。つまり、結果が直接的に淘汰につながり、そこには非難も謝罪もありません。あるのは生存か消滅かだけです。魚の群れは、個々が単純なルールに従うだけで、秩序が生まれる社会です。従いまして、魚には「責任」はありません。しかしその代わり、選択の自由もありません。

    では、鳥の群れ、特に群れで暮らす鴨や白鳥のような水鳥ではどうかと言えば、鳥にも「倫理的責任」はないそうです。鴨や白鳥などの群れにも、魚と同じように道徳的責任や罪悪感、説明責任といった概念はありません。しかし魚よりははるかに高度で、役割と秩序が存在するようです。

    鳥の群れは「高度な協調システム」を持っていて、例えば渡り鳥はV字編隊を組んで大空を飛んでいることをご覧になった方もいるのではないでしょう。これは比較的強い鳥が先頭に飛んで空気抵抗を受け、後続が気流の恩恵を受け、そして先頭は時々交代しながら群れで飛んでいます。太平洋を渡るような超長距離の移動においてはエネルギー効率の最適化とも言えるでしょう。ここに「仲間のために犠牲になる」という利他的な倫理はありません。あるのは進化の結果として形成された合理的な協調です。しかし重要なのは、役割が循環するという点です。白鳥や鴨には社会性があり、水鳥には、つがい形成(長期ペア)、子育ての協力、警戒行動の分担といった社会行動が見られます。親鳥はヒナを守るために危険を引き受けます。しかしそれも「道徳」ではなく、種の保存という本能に基づく行動です。人間社会が見本にしなければなりません。では鳥社会にリーダーはいるのでしょうか?群れの移動では、経験豊富な個体が方向を決める、体力のある個体が前に出ることがあります。しかしその地位は固定的な権力ではなく、状況に応じた機能的ポジションです。ここにも「責任」はなく、持続可能な協働モデルが存在します。

    では人間に最も身近な動物である犬の社会に「責任」はあるのでしょうか?
    結論から言えば、犬も人間のような倫理概念としての「責任」は持たないようです。しかし、役割と秩序は明確に存在します。犬はその先祖である狼と同様に群れで生きる動物です。群れの中には、リーダー(統率役)、フォロワー(従属役)、警戒役、子育て役といった役割分担が自然に生まれます。しかしそれは道徳的な「責任」ではなく、本能や序列、安全確保に基づくものです。犬社会も「責任」ではなく「秩序」で暮らす生き物であるようです。犬社会において群れのリーダーは、危険の察知や移動の決定、そして食事の優先権管理を担います。もしリーダーが弱くなれば、別の犬が自然にその位置を取ります。そこにも「責任を取る」という概念はなく、群れを存続させるために機能を果たせる個体がそれぞれの役割についているだけだそうです。では役割を失敗した犬はどうなるのでしょうか?犬社会では、群れの秩序を乱す個体や攻撃性が強すぎる個体、機能を果たせない個体は、排除・降格・孤立という形になります。これは倫理的制裁ではなく、群れの安定を守るための自然淘汰的な現象と言えるでしょう。

    犬の社会には、罪悪感、道徳的内省、説明責任、将来の信頼蓄積という概念がありません。一方、わたくしたち人間は、自分の行動を振り返り、言葉で説明し、信頼を築き、名誉を守るという高度な社会構造を持っています。ここが決定的な違いです。しかし共通点もあり、犬社会でも、安定したリーダーがいる群れは落ち着いていて、一方、一貫性のないリーダーの群れは不安定になると言われています。これは人間の組織と非常によく似ています。つまり、役割を果たせる者のみが、その位置にいるという法則は共通しています(悲しいかな人間社会では役割を果たせる者が、その位置にいるという訳ではないという悲しい現実もありますが、、、)。

    では、たくさんの種類の植物が作り出している森や植物には「責任」はあるのでしょうか?森にはやはり責任という概念はないようです。草花や木々は罪悪感を抱くことも、説明をすることも、役割を自覚することもありません。にもかかわらず、森は何十年、何百年、何千年という時間をかけて、驚くほど精緻な秩序と美しさを形づくります。森を歩くと、大木が空を支え、低木がその足元を固め、草花が彩りを添え、苔や菌類、微生物が土を豊かにしていることに気づきます。針葉樹と広葉樹、陽樹と陰樹、常緑と落葉。互いに異なる性質を持つ植物が共存し、競争しながらも全体として一つの生態系を形成しています。そこに「誰かが指示を出す」という構造はありません。森は命令ではなく、環境への順応、適応で成り立っています。光が差し込めば芽が伸び、水が不足すれば根を深く張り、倒木があればそこに若木が育つ。一つの木が倒れると、空いた空間に別の種が入り込みます。老木は朽ちて土に還り、次の命の養分となります。近年の研究では、地下の菌糸ネットワークを通じて、樹木同士が養分をやり取りすることも示されています。強い木が弱い木を支えることさえあります。しかしそれも「思いやり」ではなく、生態系全体の安定を高める結果としての仕組みです。森は、責任によってではなく、相互依存によって成り立つ社会です。どの木も、自分の役割を「理解」しているわけではありません。それぞれが自らの性質に従い、環境に応答しているだけです。しかし多様性があるからこそ、森は強く、美しく、しなやかになります。単一の樹種だけでは、嵐や病害に弱い森になります。異なる種が混じり合うことで、森は回復力を持ちます。

    森には、誰かが責任を取るという構造はありません。しかし一方で、誰かが怠けるという概念もありません。あるのは、存在するという事実と、環境への応答だけです。もしも森に倫理があるとすれば、それは与えられた条件の中で、精一杯に生きることなのかもしれません。

    では、最後に地球という単位で責任はあるのでしょうか?結論から申し上げますと、地球そのものにも責任はありません。しかし地球という単位で責任を負える存在として人間が存在します。今のところ、その代わりを務めてくれる生物はありません。地球は約46億年の歴史を持ちます。大陸は移動し、氷期と温暖期を繰り返し、大量絶滅を何度も経験してきました。火山は噴火し、地震は起こり、時には宇宙から隕石が落下してきます。そこに善悪はありません。説明責任もありません。地球は反応し、変化し、循環します。森と同じです。魚の群れとも同じです。自然は責任を持たず、ただ因果に従って動いています。

    地球規模で見ると、魚は淘汰で均衡を保ちながら海を泳ぎ、鳥は協調で持続しながら大空を翔び、犬は関係で秩序を守りながら人間社会に寄り添い生活し、森は相互依存で循環し、地球を守っています。しかし人間は、自ら破壊もできるし、守ることもできます。だからこそ人間には責任が発生します。地球規模で考えると、わたくしたち人間の責任は途方もなく重く感じられます。しかし実際に私たちができることは、正確に知ること、誤魔化さないこと、長期視点で判断すること、短期利益だけで決めないことなどが求められます。

    わたくしたちロコメディカルには「ロコメディカルフィロソフィ」という日々の行動に対する規範が示されており、全従業員は「ロコメディカルフィロソフィ」に沿った業務を遂行させることが求められます。それはトップでも同じです。
    ロコメディカルフィロソフィでは「責任」に関するキーワードとして、公明正大であること、プロフェッショナルとしての誇りを持つこと、有意注意で仕事にあたること、患者さま、ご家族さま、ご利用者さまの視点に立つこと、そしてベクトルを合わせることなどです。その源流にある稲盛和夫氏の「経営12箇条」では、事業の目的・意義を明確にする、誰にも負けない努力をすると説かれています。

    医療において責任については極めて重く受け止めなければなりません。医療者として責任を果たすことは、わたくしは社会への貢献と同義であると考えます。地域医療を守ることは、上下水道や電気、公共交通のように地域社会そのものを支えるインフラのひとつだからです。わたくしたち医師を含む、すべての医療者の判断の一つが命、人生を左右します。確認不足、説明不足、準備不足は決して許されません。医療者が責任を果たすとは、専門性を磨き続けること、誠実に説明すること、失敗から逃げず常に改善を続けること、そしてチームで支え合うことです。そして、責任を果たすために常に心がけることは、謙虚さ、準備、確認、対話、そして「自分が最後の砦である」という自覚です。特に病院という医療介護提供システムにおける医師は「責任」について、極めて強い意志を24時間、365日、常に心掛けておかなければなりません。それは「責任」の全うが、医師としての社会貢献そのものであると言えるからです。

    森には責任はない。
    犬にも鳥にも魚にもない。
    しかし人間にはある。

    西洋はそれを「説明」として語り、
    フランスは「自由と対」に置き、
    マオリは「祖先との連続性」として捉えます。

    形は違っても本質は同じです。責任を引き受ける者だけが、信頼を築くことができます。魚の機能性を学び、鳥の協調性を学び、犬の関係性を学び、森の多様性を学び、そして祖先と未来を想いながら、最後に引き受けるのは、わたくしたちです。引き受ける覚悟がある限り、組織は揺るがず、社会は続いていくと確信します。

    わたくしどもは、日々の忙しさの中にも一呼吸おいて、互いを思いやる穏やかな心と自分の周囲の全てに感謝の気持ちを持って、ロコメディカルらしい医療と介護のご提供をめざし、日々、「責任」をもって努力精進して参りたいと思っています。

    まだまだ成長途中ではございますが、今後とも医療法人ロコメディカル江口病院へのご指導、お鞭撻のほど、宜しくお願い申し上げます。


    参考文献:
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医療法人ロコメディカル 理事長 江口有一郎

 

 

 

ニュージーランド
ニュージーランドの最北端のレインガ岬から日本の方向を眺める
ヨーロッパ
ヨーロッパに向かう機内からの北極付近
お知らせ | 2026年02月25日 | admin
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